目の前の遠い青
新谷 祐太インスピレーターNo. 16
新谷 祐太インスピレーターNo. 16
「デザインとは何か」――今では、「デザイン、デザイナー」という言葉を目にする機会が増えました。今回、お話を伺ったのは、グラフィックデザインを一度手放し、現在インスピレーターとして活動をされている新谷祐太さん。新谷さんは二つの街、アメリカ・デトロイトと東広島市・西高屋で育ちました。まったく異なる地で生まれ育った新谷さんが、「デザイン」といつ出逢い、そして現在、何故手放すのに至ったのか?新谷さんが考えるデザイン、そして仕事とは――。
僕のデザインの原点はカロリーメイトですね(笑)。幼稚園生の時からカロリーメイトのパッケージが好きだったんです。「多分食べるものなんだろうなぁ」くらいの認識でしたが、とにかくパッケージがカッコ良かったので、スーパーに行った時には「これを買ってくれ」と、親にねだっていたのを覚えています。商品を楽しむというよりかは、パッケージを見て楽しんでいました。
また、お菓子の空箱等を色々組み合わせて、家でオブジェのようなものを作って遊んだりも良くしていました。父親の仕事の転勤でアメリカのデトロイトへ5歳の時に移り住んだ時は、日本では使わない色や紙を使ったパッケージがたくさんあって楽しかったのを覚えています。そこが色彩感覚だったり、デザイナーになりたいと思った原点なんです。
原風景は地元の西高屋です。小学校5年生の夏にアメリカの学校に通っていたところから、突如として日本の田舎の学校に転校する。そのギャップが凄かったし、日本の田舎の学校にアメリカから帰国子女が帰ってくるぞとなると、西高屋の学校の人たちからも、一大イベントだったわけで。注目されている変な心地良さもあり緊張感もありで異様な感じでした。僕のイメージの中で「アメリカからやってきたよ」って、ヒーローになると思っていた部分もあったけど、実際は「何だこいつ」って反応でしたね(笑)。
アメリカから日本に場面を移した時の色んな気持ちと、あの夏に帰ってきた時の西高屋の空の印象が今も強く印象に残っていて。明らかにアメリカの方が空は広いんだけど、西高屋で見た空は高くて、宇宙に近い。そんな濃い青色をしていたんです。あと夏の象徴である入道雲がとても綺麗で、あの時、あの夏の西高屋の緑の濃い匂いだったり、全てがデトロイトとは違っていてとても鮮明に覚えています。
高校卒業後、小さい頃から好きだったデザインを学びたいと穴吹デザイン専門学校に入学しました。しかし、自分の想像していた世界とは違い、直ぐに辞めようと思いました(笑)。担任の先生に話をしたところ、夏にイベントをやるから、その判断はイベントを経験してからにしたら?という話をされて。せっかく入学した学校だし、イベントを経験してみようと思ったんです。そのイベントでは自分が何かをデザインしたのではなく、人手が足りてなかったので、ブースの設営を手伝ったんです。そこで面白いなって思ったのが、ブースを組んでいる段階で人が集まりだしたんです。自分達がしていた行為というのは準備であって、何も提供できる状態ではないのに人が集まってくる。「準備段階を見せることが人の興味を誘うきっかけになるんだ」という発見があり、「色んな所にデザインの面白さが隠れてるんじゃないかな?」とその時に思ったんです。それからは学校にあった資料を読み漁り、自分なりにデザインを突き詰めて行くようになりました。書体を眺めながら、「何で書体ってこんなに多くあるんだろう?その必要性って何なんだろう?デザインとは?」ってことを楽しみながら研究していました。
卒業後は、デザイン事務所に就職させてもらったのですが、仕事の量に体調がついて行かず直ぐに辞めてしまったんです。でもデザインをやっていきたいという想いはあったので、カレンダーを制作し始めたんです。それは販売物ではなく、ポートフォリオというかアートワークで。カレンダーって年に一回の発刊が実用的なんですけど、僕はそれを1ヶ月毎に作っては何軒かのお店に持ち込んでいたんです。その大きな理由としては、クライアントとデザイナーが接点を持たないと仕事は生まれないので、その機会を多く作りたかったんです。その活動は三年続けて、実際にそこから派生した仕事もありました。
その後、一度上京し、広島に帰ってきたタイミングでサポーズデザインオフィス(建築設計事務所)にグラフィックデザイナーとして入社しました。入社したのは建築の会社でありながら、「THINK」というゲストを招いてのトークイベントをされていることが面白かったり、ボスである谷尻誠さんにグラフィックデザイナーを募集しているからと誘って頂いて。感覚的に心地よく、直感で決めました。入社した時は、立ち上がったばかりの部署だったのでグラフィックの仕事はあまりなかったのですが、建築スタッフがクライアントにプレゼンする際の資料をアップグレード出来れば良いなと思い、建築スタッフから引き受けてプレゼン資料の制作をしていたら、そのプレゼン資料を元に谷尻さんがクライアントに「グラフィックやサインも作れるんです」という提案もしてくれて。それから会社にグラフィックの仕事が徐々に増えていき、自分の居場所を確立することが出来ました。サポーズ時代はグラフィックデザイン、建築デザインといったジャンル分けされたデザインというものを超えて横断的にデザインというものやコンセプトの重要性を学べた場所でした。
独立後、デザイナーとして仕事をしていくのですが、「デザイナーがディレクションをしすぎると余白がなく窮屈なものになってしまう」と感じるようになりました。例えばデザイナーが指定した服を着るより、その人が着たい服を着て過ごす方が自由度は高いし、楽しそう。あくまでハンドルはクライアントが握っていた方が良いなと思うんです。ハンドルをクライアントが握り、進みたい方へ進む方が可能性は広がるし、楽しそうだなって思うんです。
そこで生まれたのが「勝手にプレゼンする」って発想だったんです。最近知り合いがギャラリーを初めたんですが、その動きにインスピレーションを受けて。良く知っているその人のパーソナリティを加味したロゴを作って、こういうロゴはどうですか?って勝手に提案したんです。勝手にプレゼンすることで、デザインに対して身構えてない、肩の力が抜けてる状態でデザインを考える状況を作れるかなと思って。こういう関係性が自分としては自然だと思うし、クライアントには新しい角度の目線を与えられる。そこから生まれるものは純度が高いと思うんです。「デザイン」は本当はもっと自由なもので、「デザインはデザイナーに」という枠を解放してみると面白い景色が広がってるかもしれない。デザイナーが作るものは、あくまで回答のひとつ。 クライアントもデザイナーもお互いに気を使いすぎていたんだなと。それくらいフラットになった状態で、このデザイナーと一緒に作りたい!という想いがあれば、それは良いと思うんです。
僕は、今までやってこなかったやり方でデザインや仕事に対してアプローチしたくなったので、一度手放してみました。一度離れてみて、グラフィックデザインが好きだったんだという気持ちも再認識出来ました。タイミングが合えばまたデザインもするだろうし、今やりたいことをやるという流れの中で生きていきます。
普段生活をしていく中で、仕事や社会のルール、又は誰が定めたのかも分からない「常識」や「流行り」という記号に囲まれて過ごす中で、薄れてしまっているものがあると思うんです。それは「感度」や「個」だったり「純度」と呼べるものだと僕は思います。右に倣えの資本主義社会に在る中で、新谷さんは疑問にぶつかる度に考え、「自分」はどうしたいのか?自分にとって、そして相手にとっての「気持ちの良い方向」を基準として真摯に模索している。資本主義社会経済が終焉を迎えつつある今の世。そしてこれからは彼のようなお互いが無理のない、そして自由な発想の元での個と個の間での純度の高い気持ちのやりとりで行われる仕事がスタンダードになっていくのではないか?そんな気がしました。