廣島スタイロ

一心同体の赤

広島よしもとボールボーイ佐竹お笑い芸人No. 15

その人の“苗字”はボールボーイという。子供の頃からカープの赤に漬け込まれた生粋の広島っ子。野球一色の人生に途中からお笑いのフレイバーが加わり、気が付けばクラスの人気者に。高校時代は野球部で補欠のボールボーイだったが、今は広島のメディアで欠かせない機敏なネタの球拾い=ボールボーイとしてがっちりレギュラーの座をつかむ。一球入魂の地元産カープ芸人。あこがれだった選手たちの魅力を楽しく、面白く、全力応援で伝え続ける。

広島って何色かと聞かれたら、やっぱり赤じゃないですか

実はウチの親父、もともとカープカレンダーのカメラマンやってたんです。いつも市民球場(旧広島市民球場)行ったり、キャンプに付いていったりして選手の写真を撮ってて。そんなふうに小さい頃からカープが身近にあったから、僕も自然と野球とカープが大好きになって、物心つくくらいからボールとグローブで遊んでました。

カープはファンクラブの「ジュニアカープ」の会員になるくらい好きでした。当時の市民球場は7回裏以降タダで入れるようになるから、それまでジーッと待って、開いたらワーッと入っていくんです。特に好きだったのは正田(耕三)選手。正田選手のゲッツーの取り方は最高ですよ! あとランス選手、衣笠(祥雄)選手、江藤(智)選手……初めて握手してもらったのは大野(豊)選手。バカみたいですけど、まぶしすぎて顔見れませんでしたよ。

野球は観る方も好きだったけど、やる方も好きでしたね。小5で子供会のソフトボールに入ったんですけど、入ってすぐにレギュラーになって、小6のときにはキャプテンを務めました。ポジションはキャッチャー。中学は安西中学に進み、高校は沼田高校。で、高校のときに腰を痛めてプレイできなくなるんです。そのとき一瞬部活をやめようと思ったけど、「おまえ、野球やめて何やるんや?」って仲間が止めてくれたんです。やめるのは簡単だけど、そこでやめたら全部おしまい。とにかく一度はじめたら結果が出るまでやめたくない――それはその後、ボールボーイ解散のときも思うんですけど、基本的にねちっこい性格なんですよ。

野球やってて一番憶えてるのは、高校の最後の試合ですね。高3の夏の甲子園予選広島大会。これで負けたら高校の野球部生活終了っていう大事な試合。場所は呉の二河球場(現・鶴岡一人記念球場)で、相手はシード校の呉港高校でした。試合は強豪の呉港相手に9回裏まで2点差で勝ってたんです。そのとき僕は選手をあきらめて一塁のランナーコーチをやってたんですけど、ちょうど後ろが呉港のベンチで、振り返ったらもう泣いてる選手がいるんです。応援団も「ウソだろ? シードの俺らが沼田に負けるの?……」って応援の手が止まってて。その雰囲気見て「これ、もしかして勝っちゃうのかも!?」って思ってたら、9回裏に3点とられてサヨナラ負け……。天国から地獄に突き落とされたショックでボーゼンとしたまま帰りのバスに乗ったら、出発寸前に突然、僕の前の窓に呉港応援団の怖そうなヤンキーが外から身体をねじ込ませてきて。それで「おまえらホント最高だったよ!」って叫んで帰っていったんです。そのときの一瞬「俺、殺されるのか!?」って思った風景はよく憶えてます。「一番の思い出そこかよ!」って感じですけど(笑)。

野球と同時にお笑いも好きだったんです。お笑いとの出会いは小学生のとき。僕は内気でクラスで地味な存在だったけど、小5のときにみんなの前でギャグをやったらウケて。それがこれまでの人生で味わったことのない快感で、お笑いにハマっていくんです。

中学生になると本格的にネタをしたいと思って、でもネタを書ける頭がないからいろんな人のネタをコピーしてました。当時は『ボキャブラ(天国)』全盛期だったので、キャイ~ンさんとかU-turn(土田晃之氏が在籍)さんとか。学校の昼休憩、みんなを踊り場に集めて友達と一緒にショートコントをやるんですけど、それがまためちゃくちゃウケるんです。

ボールボーイの相方だった“よっこん(横山貴規)”と出会ったのは高校時代です。相方は同じ野球部で、「あいつより面白いヤツはこの先二度と出てこない!」って思うくらい僕は惚れ込んでて。高3のとき、新聞で「吉本興行への道、大オーディション。参加者募集」っていう広告を見つけて誘ったら「ええな」って言ってくれたんです。それで出ることにしたんですけど、ちょうどその日が野球部の試合の日で。ひとまず2人ともカゼ引いたことにしてオーディションに行ったんですよ。

オーディション会場は「ダイイチ劇場(今のエディオン)」で、お客さんがネタを見て「○」「×」のパネルを掲げて審査するシステムでした。そしたら僕らだけ観客全員「○」を出して優勝しちゃったんです! 司会の中川家さんから「おまえら大阪に来い」って言われるくらい褒められて。で、その後にテレビの人が「インタビューお願いできますか?」って来たけど、相方が「僕ら野球の試合休んでるんで出られないんです」ってアッサリ断って。ポッと出の素人が優勝インタビュー断るって、どんなヤツやねんって感じですよね(笑)。ちなみにそのときのコンビ名はボールボーイじゃないんです。笑いの点取り屋・ツートップ(笑)。「あれだけ野球野球言ってるのにサッカーかよ!」っていう大ボケだったんですよ。

その優勝をきっかけに、僕は人を喜ばせることで生活できたらいいなと思いはじめたんですけど、相方は「お笑いの世界はそんな甘いもんじゃない」って冷静で。僕も大学に入ってバーテンダーの修行したりして、しばらくはお笑いから遠ざかってたんです。でも2002年、吉本の養成所のNSCが広島に開設されるって聞いて、「やっぱりお笑いやりたい」って気持ちがよみがえってきて……それでもう一度、2人でやることにしたんです。NSC広島校の1期生。そのときコンビ名はもうボールボーイでした。

コンビは14年続きましたけど、2016年、相方が芸人をやめることになり、僕は「ボールボーイ佐竹」としてピン芸人で活動することにしました。コンビが解散したときは、本当に眠れない日々をすごしました。この解散は夢であってほしい、と……。どうしても解散が受け容れられなかったんです。

でもそのおかげで、ようやく「ひとりで立ってみよう」と思ったんです。お笑い芸人として肚を括れたというか。人間って究極的に追い込まれないと最終的には覚悟なんてできないんですよ。そういう意味では相方には感謝しています。彼は僕にお笑い芸人として肚を括らせてくれたわけですから。

そこからは仕事に対する向き合い方も変わりました。黙っていても何も起こらないし、相方はもう助けてくれない。そこで自分の武器は何かと考えたとき、人付き合いのよさとか人のよさを前面に出すしかないと思ったんです。それ以降は誰に対しても謙虚に接することを徹底して、そしたらだんだん周囲の人も応援してくれるようになりました。

自分にとっての色は、やっぱり赤になります。広島って何色かと聞かれたら赤じゃないですか。宮島の鳥居も赤、カープの赤、激辛つけ麺の赤……小さい頃からずっと赤がそばにあるし、僕は赤白帽も常に赤を上にしてかぶってたし(笑)。身体の中には赤い血が流れてるから、赤とは一心同体なんだと思います。

その中でも一番思い入れのある赤は、マツダスタジアムで見る赤。マツダスタジアムは仕事でもプライベートでも行くから、シーズン中はほぼ毎日行ってる状態だけど、スタンドが真っ赤に染まった風景は何度見てもすごいですよ。試合がある日は広島駅から球場まで赤い川ができるし。僕は球場で選手を見るけど、もしかしてそれと同じくらいファンの人たちを見てるかもしれません。赤を着てるだけで親近感を感じるし、赤という色が人と人を結び付けてくれてるような気もするんです。

2020年のカープは挑戦者として再スタートするシーズン。「打倒、巨人!」を合言葉に、また真っ赤になって盛り上がっていきたいですね。

取材後記

野球とお笑いのツートップ(笑)で走ってきた佐竹さんの人生。そう考えると、いま芸人仲間のあらきあきゆきさんと開催しているトークライブ『自称カープ芸人』はまさにそのツートップ(だからしつこい・笑)の交差点なのかもしれません。最後に、佐竹さんの野球とお笑いのもうひとつの交差点(泣ける編)を紹介しましょう。「……今はひとりでいろんなことに挑戦してるけど、漫才へのあこがれは今もあるんです。いつか、もしタイミングが合えば、草野球じゃなくて“草漫才”ができたらなって思うんです。だからまだ看板を下ろしてないんですよ。佐竹祐一でやればいいのにボールボーイ佐竹でやってるのは、いつか“彼”が帰って来るかもしれないって思ってるからです」。

Profile ボールボーイ佐竹 1980年、広島市安佐南区生まれ。幼い頃から野球に夢中で、小(ソフトボール)中高と野球漬けの毎日をすごす。沼田高校野球部での球拾い時代に横山貴規(よっこん)と出会い、大学卒業後お笑いコンビ「ボールボーイ」結成。2002年、開設されたばかりのNSC広島校の1期生となる。2016年3月、横山が芸人を引退。以後「ボールボーイ佐竹」名義でピン芸人としての活動をスタートさせる。現在はTSSテレビ新広島『ひろしま満点ママ!!』『全力応援スポーツLOVERS』、RCCラジオ『それ聴け!Veryカープ!』『STU48のちりめんパーティー』など幅広い媒体で活躍。芸人仲間のあらきあきゆきとトークライブ『自称カープ芸人』を定期的に開催している。