廣島スタイロ

ごった煮レッド

株式会社HDC三家本 剛和(通称 : MIKKA)代表取締役社長兼ダンサーNo. 14

皆さん、「ダンス」と聞いて何を思い浮かべますか?EXILE? Tiktok? 現在、様々なメディアを通じてダンスを見ることができ、またインターネットで「ダンス」と検索すれば、多種多様なダンスの教室があることが分かります。学校教育として扱われ始めたことをニュースで目にしたのも、まだ記憶に新しい。そんな最近注目を浴びているダンスも、サブカルチャーだった時代があるそうです。今回、取材させて頂いたのは、ダンサーとして広く活躍され、広島のダンススクールを経営されている株式会社HDC代表取締役社長を務めるMIKKAさん。アーティストの全国ツアーにバックダンサーとして活躍されながらも、次世代へダンスカルチャーを残していくために、若い時からダンスを教えることをされています。まだダンスが盛んではなかった時代に、どのようにしてダンスに出逢い、今に至ったのか。そんなMIKKAさんの背景やダンスに対しての想いを伺ってきました。

ダンスと今も一緒に会社を営む仲間との原点、チャイナタウン

僕がダンスと出逢ったのは広島県立観音高校に入学した時です。友達が先にダンススクールに通い始めたのがきっかけでダンスに興味を持ち、「女の子にモテるんじゃないか?」という単純な想いもあって、僕もダンスを始めました。

その時にダンスを一緒に始めた友達二人は、今も一緒に株式会社HDCを経営している二人なんです。今でこそダンスというカルチャーはメジャーになったんですが、その当時はダンサー人口も少なくて、完全にサブカルチャーでしたね。「ダンスをやってる」って言っても周りの反応も「え?ダンス?」って感じで。

当時の広島のダンサーは、並木にあった「CLUB G」「Tunnel「マーズ」などが主でした。その中でもショーケースとして使われ始めたのがチャイナ(広島市中区銀山町にあるclub CHINA TOWN、通称:チャイナ)でした。県外のダンサー達にも今では知れ渡っていた箱なんです。

昔、キャバレーだったその名残が残っているあの外観もそうですし、暗がりに浮かぶチャイナのネオンサインだったり、決して外装などは綺麗ではないんですが、情熱の赤って感じの色とか、ごった煮な感じ。そんなアングラな感じが好きですし、チャイナは自分の原点なんです。

なので、バックダンサーとして東京ドームで踊るよりチャイナで踊る方が未だに緊張するんです(笑)。ドームではあくまでもアーティストがメインで、そのバックアップとして存在しています。勿論、今の時代はダンサーにもクローズアップしてくれるアーティストも沢山いますし、EXILEなんかは分かりやすく今の代名詞です。

けど、大箱に大勢の観客で埋められた場所では、ダンサーは点でしか見えないのですが、チャイナでは人との距離も近くて、生モノを生で観られている事を感じられるステージなんです。

HDCを立ち上げてからも「HIGH SCREAM」っていうダンスイベントをチャイナでやっているんですが、ちょっと格式の高いステージも当然いいんですが、やっぱりチャイナの「ごった煮」な感じが良いんです。チャイナでは、ショーの前に曲をずっとイヤホンで聞きながら、上手く人混みをかき分けて「すいません、すいません」って言いながら舞台袖に向かうんです。都会の喧騒を逃れて精神と時の部屋に入っていくみたいな(笑)。

また、イベントによって観客の反応がリアルなので、それが良いショーだったのか、あんまりだったのかを観客の反応で分かるので、「ごった煮」の方がそれをリアルに感じることができるんです。バンドのライブなんかでよく一体感ってことが言われますが、それをより感じるのが、チャイナのような「ごった煮」の距離感なんじゃないかなって思うんです。

「ダンスで飯を食おう」って意識になっていったのは、当時通っていた比治山短期大学の美術科の二年生の時。自分は就職をしないって決めて。

特にダンスに自信があった訳では無いんですが、就職って生き方は自分に向いてないって。これは今でもそうなんですが、「楽しいことを真面目にずっと続けていきたい」がモットーなので、それが自分にとってはダンスだったんだと思います。

本当に小さい頃からサブカルチャーが好きで、僕のバイブルである1980年代のサブカルチャーを特集していた「宝島」という雑誌は今でもたくさん持っていますし、常にダンスや音楽といったカルチャーが自分の中にあったので、自然とそうなった思います。

父親は自営業で、広島で「トラッドスタイル」のアパレルショップを経営しているのですが、22歳の時に「ダンスをやるなら東京に出ようと思う」と父親に相談したんですが、「東京に出るのは自由だけど、広島で名を売って成功しようとは考えんかったんか?広島で世界一の店にする、そうゆう気持ちで今までやって来た」と言われて。だったら自分も広島から全国に名を売ってやろうと思い、東京に出るのを辞めて、広島でダンスをやっていく決断をしたんです。

その時に、今でも大事に持っているんですが、これからの自分の計画書を紙に書いたんです。それは「25歳、バックダンサーになる!30歳、ダンス界で広島=MIKKAと名前が出てくるようになる!35歳、尊敬する人達と一緒に仕事をする。40歳、好きなように踊っている。」という内容のもので。

当時は今みたいにSNSもなかったので、目標を達成するために生の情報を得たくて、お金を貯めては東京へ行き、東京で活躍しているダンサーのやっている事を直に感じ取るために足を運んでいたんです。そこで「バックダンサー」という仕事を知ったり、クラブでイケていたショーなどを目の当たりにし、まず自分もそこに肩を並べなきゃいけないって思ったんです。

しかし、「25歳、バックダンサーになる」という目標が達成出来なかったんです。その時は焦りました。

そこから27歳の時に初めてバックダンサーとして踊り、30歳の時には、「広島ではMIKKAって名前が出てくるよね」とって言ってもらえるようになったか不明ですが、35歳の時には尊敬する先輩と大きいツアーの仕事を一緒にさせてもらえる機会があって。

計画書からズレたり、達成したかはわかりませんが、紙に書いた計画書を達成出来たと、勝手に自己満足しています(笑)。

22歳で広島に残るという決断をした時に、「これから先、何年自分は踊っていられるんだろう?踊れてるうちに自分のダンスや想いを子供たちと向き合い、伝えていきたい」と言う想いがあって、ダンスを教えることを始めたんです。

教えるのって未だに難しくて、自分が向いているのかどうかもまだわかりません。自分のダンスのスタイルを真似さそうとしても、みんなそれぞれ体型も違えば、リズム感も違う。僕が伝えたいことは、生き方と言うと大げさかもしれませんが、「自分の芯をしっかり持ってやって欲しい」ってことだったり、少しでもダンスを通して、人生においてのベクトルを示せていけたらいいなって思いながらダンスを教えてます。

ダンスを現役でいつまで踊ってるいるかわかりませんが、40歳を超えて踊っている姿は、若い時と比べると衰えていく中で、「果たして、イケているのか?」と思いながらも楽しく踊りますが、若い子たちに少しでも道は作れたのかなと思うので、次のシーンを作っていって欲しいと思っています。

サブカルチャーも変わらず好きですし、音楽やファッションも好きで。今、友人達と一緒に「Xi(サイ)」というアパレルブランドを楽しくやっているんです。これからは、自分個人の楽しみも見つけていきたいと思っています。

取材後記

ダンスというのは知識のない自分からすると、どこか派手な感じの印象が強かったんですが、平成最後の日に開催した「平成グッバイ / HEY SAY! GOODBYE!!」というイベントの企画にMIKKA君に一緒に入ってもらい、HDCさんでダンスのショーを組んでもらったのですが、一緒にイベントを作り上げていく過程で、ダンスやイベントに対してとても誠実で、そして常に楽しむ姿勢を大事にしている、そんな印象を受けました。実際にHDCさんのショーのおかげでイベントとしても締まりがあって、大成功。この度、改めてインタヴューさせて頂き、僕らでは予想もつかない世界で活躍されているけれど、本人は「それはそれで本当にやりたいことは別にある」と冷静に受け止められていて。視線は一貫してブレておらず、MIKKA君のその後世へ遺伝子を残したいという想いや、カルチャーへ向けられている真っ直ぐな眼差しが、とても清々しく、気持ちの良い方という印象を改めて受けました。これからの人生の白紙の計画書がどのように埋められていくのか。いちファンとしてとも楽しみにしています。

Profile 三家本 剛和(通称 : MIKKA) 広島市東区生まれ。SMAP, DREAMS COME TRUE, CHEMISTRY, 松下優也,X4などのツアーバックダンス及び振付、MV出演。地元広島を拠点に、全国でショーケースなど幅広く活動。代表取締役社長を務める株式会社HDCは現在、光町にあるスタジオの運営及び経営。また、県内外におよそ140クラスのスクールを展開している。年に2回の発表会やクラブイベント、フラワーフェスティバルや様々なお祭りにも精力的に出演。広島青年会議所主催事業 浅野氏広島城入場400年を記念して行われた「広島ダンスレボリューション」では、振付・撮影含め、総合統括を行う。その他事業展開として、小顔矯正サロン運営、服飾プリント及び刺繍事業、フラッシュモブ事業など多岐にわたる。また個人として気鋭アパレルブランド「Xi boyz」として活動。