青に似合う黄色
Lifemarket 代表元 圭一写真家No. 31
Lifemarket 代表元 圭一写真家No. 31
広島市の南に位置する広島港に隣接された工業特区「出島」。そんな普段、足を踏み入れる事のない地域は瀬戸内の潮風に晒された倉庫のヤレがいい色気を醸し、ブルックリンなどの海外の倉庫街を想起させる空気がある。大型のトラックやトレーラーが忙しなく出入りする無骨な道を進むと、「take it easy」の看板と共に、二階建ての倉庫をリノベーションされた建物が突如として現れる。そこは男の子なら誰もが憧れる秘密基地そのもので、そこが「Harborclub」だ。以前はハンバーガーを提供されていた一階部分は、今では写真や映像のスタジオとして利用されている。十分なスペースの広さと天井の高い贅沢な空間はフォトジェニックに物が配置されていて、写真家である元 圭一さんのセンスが窺える。取材に訪れた日に、撮影もすると勘違いしていた元さんは自前のバリカンで頭を綺麗に刈り、パリッとした白シャツを着て僕らを出迎えてくれた。そして自社で焙煎したコーヒー豆をミルで砕き、ゆっくりとコーヒーを淹れ、私たちを屋上へと案内してくれた。そこまでが既に何枚かの写真のようで、自身もフォトジェニックな雰囲気のある元さんは「色んな事をしている人のように周りからは写っているかもしれないけど、やっている事は写真を撮る事と一緒なんです」そう言ってこれまでの事を語ってくださいました。
今の自分を知っている人は驚くと思うんですが、幼少期の頃は心も身体も弱くて凄くセンシティヴな少年だったんです。小学校卒業までに12回入院していて、運動会や学芸会も緊張で入院していました(笑)。
そんな入退院を繰り返す日々だったので、あの頃は、毎日が暗くて。実際死ぬような大病を患っていたわけではないんだけど、「死」というものを身近に感じていて、「明日目が覚めればいいな」って、常に心に不安を抱えてました。
そんな身体も心も弱く生まれてきたんですが、自衛隊だった父親がエキセントリックな人で、「今日の夜ご飯は蜂の子のコースです」とか「何でも食べにゃあ駄目なんじゃ」って教育の人で。お祭りの時に買ったカラーひよこを大事に育てていたんですが、ある日家に帰ったら吊るされてて、「よしっ!今から捌き方を教えるぞ」って。そんな家庭で育ちました(笑)。
身体は弱かったんですが、中学校ではバスケがやりたくて。先生に相談すると「いや〜、元君は身体が弱いからね。バスケは走らないといけないから駄目です」って言われて。「じゃあ、何だったらいいですか?」って聞くと、「バレーなら走らないからいいか」って(笑)。地元が呉の漁師町なんですが、呉の中でもかなりディープな街で、何だったら「入学したくありません」ってくらい怖い先輩方が当時沢山居たんですが、バスケが駄目ならという理由で入部したバレー部がよりによって不良の巣窟だったんです(笑)。
先輩方にはかなり鍛えられました。学校から自分達が住んでいる街まで中々距離があるんですが、「今日はおんぶで連れて帰れ」とか(笑)。不良の先輩方に可愛がられながらそこで心が強くなり、バレーで体力もついてから入院することもなくなって活発になっていきました。
大学在学中に沢木耕太郎の「深夜特急」を読んで、バックパッカーで旅がしたくなり、アジアを旅したんです。そこで、旅するなら写真くらい撮りたいなと思い初めて、香港で「PENTAX SP」ってカメラを買ったんです。ただ香港だったんで説明書も読めず、最初は無理やり巻いてフィルムが切れたり、そんな適当な感じで撮っていたんですが、日本に帰り、現像してプリントしてみるといい感じに写ってて、「あれ?俺凄く上手かも?」って思って(笑)。そこが写真というものに触れた最初の時でした。
大学も卒業が近づくに連れて周りが就職活動をし始める中、バイトをしては旅に出るって生活を繰り返していたので単位も足りず、気づけば「就活とか全然イメージできん。旅したいし、社会人とか無理だわ」とか言ってるスーパー駄目人間になってました(笑)。ただ周りも就活の話しかしないし、徐々に不安になっていって。そんな時に大学の教務課の所に写真館の「新卒でカメラマン募集」の張り紙を見つけて。写真が仕事になれば、旅も行けるんじゃないかと。それでピピーン!ときて。
ただ写真を勉強したこともなくて、全然詳しくなかったんです。その写真館の入社試験の前の日に、テレビを点けたら丁度NHKで写真家の立木義浩さんのドキュメントをやっていて、「あ!写真家!」と思って。それを観て、次の日喋ったら受かるっていう(笑)。
それから写真について色々教わり、一丁前にカメラぶら下げて自分の創作活動を始めました。美容師や友達のアートが好きな子達と集まって「ギル」っていうアート集団を作ったりして。勤めていた会社のビルの一階がスケルトンでコンクリ打ちっ放しのスペースだったんですが、そこに間隔空けて畳一畳ずつ引いて、それを各々のブースにして一ヶ月間泊まりながらやるっていうアート展をやったりしてました。
あの頃は仕事が終わったら本屋をとにかく巡って徹底的に写真集や雑誌を見漁っていて。そんな中、自分が「格好ええなぁ」って写真を撮られていたのが操上和美さん。最初は「女の人でこんなエッジの効いた写真撮る人がおるんじゃあ!」って気になってたんですが、コマーシャルフォトの特集で、その中に操上和美さんが登場していて。それを観たら「え?おじいちゃんじゃん?!」って(笑)。その特集でも他のカメラマンさんは技術の話をされてたんだけど、操上さんだけはマインドの話をされてて、そこにヤラレました。
そこで「操上さんの事務所で働きたい」って思って東京に出たんです。それが24歳の時でした。操上和美さんの事務所というのは基本的に募集をしてなくて、入るのが狭き門なんです。そんな事も何も知らず、「すみません!操上さんの助手がしたくて広島から来ました!」って直接電話をかけたら、運良く丁度人が足りなくなった時だったみたいで、「今、面接してるから何月何日にブック持って来なさい」って言われ、突撃してみたら何故か面接で気に入ってもらえて受かったんです(笑)。その時の体験から相手がどれだけ有名だろうが「とりあえず電話してみよう」っていうマインドが培われました。
写真界の東大って言われている事務所なんで仕事はめちゃくちゃ厳しかったです。周りはエリートなんで先輩達も凄く仕事ができるし、最初の三ヶ月間くらいは1日100回くらい怒られてました(笑)。そこで教わったのは「自分で考えて自分で動け」という事。例えば操上さんが個展をする時に大きい写真とかを入れて運搬する用の木箱。あれを作れとか言われて、発注させてくれないんです。とにかく自分達で作れというのが信条。まず設計図を自分達で引いて、材料から全部プレゼンして操上さんに認められないと材料すら買わせてもらえないんです。大変だったけど、何でも出来るっていうマインドは身につきました。普通は10年で卒業なんですけど、3年目で親が病気になり、広島に帰る事になりました。
事務所を退社して広島の前にいた写真館に戻ったんですが、すぐに独立しました。只、始めた当初は広島の広告業界の事も知らないし、金もないし仕事もなくて、めちゃくちゃ暇だったんです。かといって結婚したばっかりで出勤しないと嫁さんも心配するので、出勤しては当時雇っていた助手のマンマン(中尾君)とプリズンブレイク観て、ご飯食べて帰る生活。お金だけがなくなっていきました(笑)。
ただ仕事を続けていると、仕事で関わるヘアメイクさんとかに「面白いね」って言って貰えるようになり、口コミで仕事を紹介して貰えるようになり、どんどん忙しくなっていったんです。多い月は1か月で94本撮影してて。その頃はお酒も強かったので、毎晩飲みに出てましたし、かなり生意気になっていたと思います。それから事務所付きの家も建て、派手な生活を送っていました。
しかし、2011年3月11日に震災が起きて。「家にも帰らず酒飲んで、調子に乗って仕事して。俺ってどうなんだろう?」って思い始めて。出張にも沢山出て家にいる時間も少なくて、家族との関係もちょっと微妙な雰囲気になっていて。「これは家族で何か一緒に出来ることをやったほうがいいな」って思い、キャンプに行ったんです。大人になっていざキャンプに行ってみるとテントも建てれないし火も起こせないんですよ。「火が点かなかったらキャンプ離婚じゃね」とか嫁さんに言われたりして(笑)。そんなこんなでなんとかテントを建てて、火を起こして、肉を焼いて、焚き火も出来て、なんかその感じが凄く良かったんです。嫁さんも普段話さないことを話してきたりとかして、こういう「コト」は写真だけでは伝えられないなってその時思ったんです。
「3.11」って大きな事件があって、「忙しく仕事することが格好いいのか?」って疑問視も生まれたり、もう少し毎日の「生き方」の部分を見直した方がいいなって思ったんです。そういうコトの部分がサービス化出来たらいいなって想いで「Lifemarket」という会社を立ち上げました。
助手のマンマンが10年働いて独立することになり、それを機にやりたい事をやろうと思い。物件を探していたんですが中々いい物件がなくて。家賃を引き上げて見たら出島の倉庫がポンって出てきて。元々、出島ってエリアは工業地区で日本っぽくない雰囲気が好きで良く撮影のロケで訪れてた場所なんです。倉庫の場所は良かったんですが、値段が一棟貸しで考えていた事業モデルとは合わなくて。でもどうしても欲しいと思い、最終的に借りちゃいました(笑)。ただ借りたは良いけど、二階建て屋上付きの一棟貸しで、「何をしよう?」ってなって(笑)。
当時、出張でアメリカのポートランドとかブルックリンに撮影に行く機会があり、当時のポートランドは物作りをする人達が集まっていて、リノベーションをDIYで、尚且つ自分らしいスタイルを突き詰めている文化があったんです。実際に行ってそれを肌で感じていていいなぁって思っていたので、その感じでこの倉庫もコンテンツも仕上げようって思ったんです。それが「Lifemarket Harborclub」というこの場所を始めたキッカケです。
僕は、Harborclubを作ったり、Lifemarketでイベントするのも、自分にとっては写真を撮る為の準備と変わらないんです。箱を作って、イベントを催して人が入っている様子を写真に撮れば一枚の写真が出来上がるじゃないですか? Harborclubを出島に作った理由の一つもこのエリアが凄くドラマチックだからで。すぐそこに行けば海があって、綺麗な夕日が見えて、朝に倉庫の前でタバコを吸いながらコーヒーを飲む。その風景自体を向こう側から撮れば格好良い写真になるわけで。モノもコトも全て被写体として向き合ってて、自分の目線は常に写真に撮ったらそこにシズル感があるかどうかで、そこを軸に色々「コト」も作っていっているんだと思います。
写真家的な話で言うと幼少期の話に繋がってくるんですが、自分は多分すごく元気な感じで世の中からは見られてると思うんですよ。色々やっていて活動的でエネルギッシュで「明るい!」みたいな。でも本当は幼少期の暗黒時代には戻りたくなくてそこに反発しているだけで。根本は根暗なんだけど人前では「凄いやる」っていう風に振舞っているだけなんです。
最近気付いたのは、自分は「何に対してシャッターを押してるか?」って事で。言語化出来ないんだけど何かいいなって思う所には被写体としても、場所としてもエネルギーがあって。自分はそのエネルギーに魅了されていて、それをキャッチするのが仕事なんです。そのエネルギーに触れることで元気になるし、エネルギーを貰えると思っています。少年時代の死ぬか死なないかみたいな事とはすごく真逆だからこそ、今物凄く執拗にエネルギーに興味があると思うんです。これがまた面白いんだけどエネルギーを日本語で調べると「元気」なんですよ。「元」の気。みたいな(笑)。
色の話も、エネルギーに一番近い色は黄色か赤だと思っていて。でも自分は赤じゃなくて黄色なんです。それは自分の好きな瀬戸内の風景の空も海も青くて。黄色って自分の好きな風景と一番相性が良いんです。だから好きな原風景は青いんですけど自分の色は黄色なんですよね。
これを言っては元も子もないんですが。いつもインタヴューの後に編集する時に思うのは、インタヴューの音源そのままを届けられたらいいなって思うんです。文字数の制限上削らなければいけない言葉もあるんですが、この元さんのインタヴューでも仰ってた「言い表しようのないエネルギー」はその現場の空気や相手の声や、話の間に含まれていて。そのエネルギーを出来る限り伝えようと努力していますが、まだ編集の技術が拙い部分もあって届けきれてない部分もあると思います。だから記事を見てピピーン!ときた人は直接会いに行って欲しいと思うんです。この元さんのインタヴューを見ても、いつだって彼の人生を切り開いてきたのは「突撃マインド」だという事が分かります。廣島スタイロは広島の面白い人たちを記事にしているメディアなので会いに行こうと思えば行けるんです。そういう部分もこのローカルメディアの良い部分だと思うし。今のこの時期、直接会いに行くという行為はそのままの熱量なので新たな価値だと思います。この廣島スタイロに限らず、会いたい人がいるなら先ずは連絡を取って会いに行って見ませんか?