桃色暮色
清水 浩司作家・フリーライターNo. 11
清水 浩司作家・フリーライターNo. 11
2019年『第9回広島本大賞』小説部門受賞作品『愛と勇気を、分けてくれないか』の著者・清水浩司さん。作家でありフリーライター、コメンテーターなど、さまざまなメディアで活躍されています。『愛と勇気を、分けてくれないか』では、1980年代後半の広島を舞台に、その当時の息づく等身大の広島とも呼べる姿が、そこに描かれていました。
僕の生まれは岡山県なんですが、親が転勤族だったんです。父親が公務員でダムを建設する仕事に携わっていたので、幼少期は中国地方の川がある街を3年おきくらいに転々とするという生活を送っていました。島根県出雲市、山口県防府市、広島県府中市。そして、中高生の頃、広島県大竹市に住むことになり、広島市内の男子校、広島学院に進学しました。親に勧められるがまま入った進学校だったんですが、思春期の自我が目覚める年頃の僕は、勉強一筋の空気にうまく馴染むことができず、かといって不良になれるわけでもなく、男子校で女の子と話すこともできず……。今思えば、そういった境遇の中で、カルチャーに救いというか逃げ場を求めていたと思います。
当時の自分は、文化小僧というか、音楽、本、映画が好きで、レコード店や本屋、映画館によく通っていたんです。けれど、お金はなかったので、通学時の電車賃や昼ごはんのパン代などを貯めて、それらの資金に充てていました。だから基本的に移動はいつも歩き。学校が終われば、西広島駅から新己斐橋を渡り、街の中心部まで歩いていく。CDやレコードを探しに行ったり、本屋やコンサートに通ったり。あと当時は鷹野橋に「サロンシネマ」というミニシアター系の映画館があったので(注:現在は八丁堀に移転)、よく行っていました。そこでは「フィルムマラソン」というオールナイトの映画イベントをやっていて、高校生なのにそれに参加し、朝方6時頃に見終わった後、映画の感想をひとり噛み締めながら新己斐橋を歩いて駅まで帰ったりしてました。
思春期に見た広島の風景や、自分の居場所はどこにあるんだろうという迷い、可愛い子にも全然声をかけられない意気地のなさ……その当時の悶々としていた想い出というのが、「愛と勇気を、分けてくれないか」という小説のベースにもなっていますし、そういう記憶がこの歳になっても一番覚えているというか、自分のルーツになっていて、原風景として色濃く残っているんです。
当時は情報を得るには、ほぼ雑誌でした。当時住んでいた大竹にも、雑誌だけは何日か遅れて流通されてくる。音楽が好きだったので、「ロッキング・オン」という雑誌をよく読んでいたんですが、その雑誌には投稿コーナーというものがあったんです。音楽についての原稿を読者からも募集していて、高校2年生くらいのときに、ふと思い立って自分も書いて送ってみたんです。すると、寄稿して2回目くらいに自分の書いた原稿が雑誌に掲載されることになったんです。何の取り柄も無い高校生だった自分は、その体験がキッカケとなり、そのとき初めて東京に行って雑誌の仕事がしたいと思うようになったんです。人生のターニングポイントですね。
大学進学を機に上京し、憧れの街「下北沢」でバイトしながら、サブカルチャーに触れて、気の合う仲間とイベントに行って遊んだり、レコードが好きでDJもしたり。ある種、高校の頃に夢見ていたことが実現したんです。そんな生活の中で、音楽関係の雑誌の方と知り合いになり、大学卒業後は、そこの会社で住み込みで働くようになりました。才能あるクリエーターの方が多くいて、その人たちと仕事をするのが楽しかったんですが、会社が大きくなるにつれて、より商業的な方向を目指すようになってしまって。僕はまだ若くて青臭かったので、退社の道を選びました。
会社を辞めてどうするか何も考えてなかったのですが、いつのまにか知り合いの方から原稿を頼まれるようになり、気付いたらフリーのライターとして食べられるようになっていました。主に音楽、映画、アート関係を書いていました。でも、20代だった僕は、もっと広い世界を知りたくて「文章を書く仕事の究極って何だろう?」と考え、小説を書いてみようと思ったんです。そこで、やるならストイックに、と考え、小説家になるからと思い切ってフリーライターを辞める宣言をしてしまったんです(笑)。けれど、最初の小説「ぼんちゃん」を書いて、自分の書いた本が錚々たる小説家さん達の本と一緒に本屋の平台に置かれているのを見た瞬間、「あ、自分はこの世界ではやっていけないわ」と直感してしまったんです。まわりはあまりにも才能ある方ばかりで、自分程度の能力ではここで戦っていくことはできない。そこからは“普通のくらし”を目指すようになり、34歳のとき芸能雑誌の編集者として人生2度目の正社員をはじめました。
その後、東京で結婚し、着々と平穏な幸せを築いていました。結婚後すぐに子供も授かりました。描いていた“普通のくらし” を手に入れたんです。しかしそれもつかの間、妻がお腹に子どもがいる状態で、癌が発覚したんです。私は妻の看病のために会社を辞めたのですが、妻に旅立たれ、無職でシングルファーザーという状況になりました。そこで、僕は広島で自分の両親に育児を手伝ってもらう道を選び、30年ぶりに広島に帰ってきました。
長男ということもあって故郷への想いというのは常にあって、東京に出てから一層その想いは強まり、「いつかは広島に帰らないといけないな」と考えていたのですが、キッカケがつかめないでいました。帰らざるを得ない状況になって、結果、帰ってきたという感じですが、気持ちはスッキリしています。広島に帰ってきてから仕事の面ではいろいろありましたが、「やっぱり書く仕事で生きていきたいな」と開き直り、多くの人との出会いに恵まれ今のような状態になっています。
今の仕事の状況は……本業はフリーライター&編集者で、趣味が小説家、あとラジオやテレビは楽しい遊び、または自分への挑戦という感じでしょうか?(笑)。どれも好きなんですよね。ただ、どの仕事も気持ちのクールダウンが大事で、歩いていると思考が整理されるんです。部屋にいるときよりもアイディアが閃いたり、思考が整理されたり。日々の生活の中で、一人でボンヤリと歩いている時間が好きなんです。今でも高校時代のように、広島の街を歩いています。
自分の青春時代に西広島駅へ街から帰るとき、いつも渡っていた新己斐橋から見ていた川幅の広い太田川から、海へと抜ける空が薄いピンクに染まる夕焼けの情景は、小説にも出てくる色なんですが、すごく好きですね。何だか瀬戸の夕暮って薄い水色と薄いピンクが合わさったようなミルキーな色が出る時間帯がありません?昼と夜のあわいに出現する、夢のようなマジックアワー。それは呑気で、優しくて、夢見がちで、やらしくて、ロマンチックで……。その色合いは僕にとっての広島という街そのもので、自分が一番愛している色彩なんだろうなと今は思っています。
今ではインターネットがあって、パソコンや携帯電話というツールを使えば簡単に情報は得られるし、モノも手に入ります。映画も観ることができるし、本も読めてしまう。だから、本屋に本を買いに行ったり、映画館に映画を観に行くという「行為」が少しずつ失われつつあると思います。清水浩司さんの広島での青春時代のお話を伺っていると、映画を観に行くのも、レコードを借りに行くのにも、常に歩いて現場に赴かれていて、それってエネルギーだと感じました。「好き」へ向かって歩くのは、エネルギー。そうして「体験」として得られた情報は、記憶や経験として血肉となり、この度の「愛と勇気を、分けてくれないか」という小説にも繋がっているのではないかと思います。小説の中でも少年たちは、苦労し、傷つき、さまざまなことを経験して成長してゆく姿が描かれていました。インタビュー中に、清水さんが「大事なモノはちゃんと苦労して手に入れたいんです」と、仰られていたのが印象的で、この小説に描かれていた、1980年代後半の等身大の広島、そして少年たちの物語には、今の時代に忘れ去られつつある「大事なもの」がそこに描かれていたと僕は思いました。