廣島スタイロ

照明と砂埃のおれんじ

おれんじアマチュアサッカー選手&コーチNo. 34

私はこれからあなたに、これまで聞いたことがないサクセスストーリーをお話しようと思う。主人公のおれんじは小さな頃からサッカー好き。「サンフレッチェの選手になるんだ!」と息巻き、朝から晩までボールを蹴り続けていた少年だった。だが大人になった今、彼はその夢をかなえたわけではない。プロサッカー選手でもなければ、プロのサッカーコーチでもない。建築資材を扱う会社で働くサラリーマンで、いわばサッカーは趣味というポジションだ。しかし――彼ほど幸せなプレイヤーはいないのではないだろうか。これはどこにでもある平凡な話なのか、どこにもない夢物語か? 市井の人の只中で、勝利のホイッスルが鳴っている。

ボールを転がしているようで、ボールに転がされている

生まれたのは広島市内ですが、父が家業のみかん農家を継ぐため、小さい頃に両親の実家の大崎上島に戻りました。サッカーをした一番古い記憶は保育所のとき。親の話では「安本くんがボールに触れなくて大泣きしてた」と先生に言われたそうです。

小学1年で本格的にサッカーをはじめました。僕の住んでる地域には少年野球部しかなくて。野球部は土日が試合で島外に出るから親の付き添いが必要で、ウチの両親は土日も農作業があるからムリだったんです。でも僕はエネルギーが有り余ってるから何かスポーツはさせたい、と。それで知り合いのツテを頼って隣町にある「オレンジクラブ」に入りました。本当は小3からしか入れないのに特別待遇で。最初は一回りも二回りも身体の大きいお兄ちゃんたちのマネをするのに必死でしたね。

そんなとき、Jリーグが開幕するんです。あの頃って水曜の夜に地上波で中継をやってたんです。テレビの中ではライトに照らされた選手のまわりに360度、影ができてて。なぜかあれをカッコイイと思ったんですよね。オレンジクラブの練習も日曜18時からで。大崎上島中学校のグランドに灯がともって、自分のまわりにもいくつも影ができて、足元を見たらボールがある。それで「同じことやってるオレもカッコイイ!」と思って。そこからですかね、「サッカーは夜にやるもの」というイメージが付いたのは。

もちろんJリーグで好きだったのはサンフレッチェ。当時は「大人になったらJリーガーになりたい」と思ってたけど、正確にはサンフレッチェの選手になりたかったんです。とにかく紫色のユニフォームがカッコよくて。一番好きだった選手は久保竜彦。自分もFWだったこともあって、高校時代は風貌をマネして坊主にアゴ髭にするくらい憧れてました。

オレンジクラブでは6年間、楽しく練習しました。小学生チームを卒業するとき、父に言われたセリフは憶えてます。「一番遠くから来てるのに、6年間ずっと最後まで片付けをしてから帰ったのは偉い。ようやった」。そんなに子供のことを褒めない親父だったんです。父は毎週早めに迎えに来て、僕らがやってるミニゲームを見て帰るのがルーティンで。最後ボールを倉庫にしまうまで、いつも見てたんでしょう。

中学に上がると島ならではの問題にあたります。地元の中学にサッカー部がないんです。僕を助けてくれたのは、オレンジクラブのママさんチーム。「高校に入るまで練習に来たらいいよ」と受け入れてくれて、サッカーを続ける事ができました。

そこにはママさんと同時に、社会人チームを卒業したシニアの方もいて。みんな僕のことを気に掛けて、「ここはこうした方がいいよ」とかいろいろ教えてくれるんです。

その頃からかな。だんだん現実を知って、サンフレッチェの選手になるのはムリそうだって思うようになるのは。でもサッカーから離れるのは考えられない。自分がつかんだサッカーというものを手放さないためにはどうしたらいいのか……そんなことを考えてると、オレンジクラブにいる大人の存在を意識するようになるんです。クラブには自分のことそっちのけで中学生の僕にアドバイスをくれる大人がたくさんいて。僕もいつかサッカーを教えてみたい、子供たちとサッカーをしたい――そんなふうにボヤッと考えるようになっていきます。

高校では念願のサッカー部に入れました。だけど島の学校なので部員不足には悩まされました。それでも3人の先生に出会い、やり切りましたね。3年間やって、公式戦で勝ったのは高3の引退がかかった最後の1試合だけ。0-0からのPKで5-3。

PKで勝った瞬間、その場で泣き崩れましたよ。中学校のときは部活ができなくて、高校に入ってもメンバー足りなくて苦労して。その年はキャプテンでもありましたから。それが高校3年間で唯一の公式戦勝利。1回戦で勝って大泣きしてるんだから、まわりの人はビックリですよ。試合後、相手チームに挨拶に行くとき、僕はキャプテンなので先頭で行かなきゃいけないのに、副キャプテンに肩を抱かれて連れていかれましたから。

この頃はもう、サッカーの指導をしてみたいという想いは固まっていました。ただ、自営業をしていた父や祖父を見て育ったので、仕事をしないと生活できない。サッカーコーチが仕事になると思えない。そんな葛藤をずっと抱えていました。

なんとかしてサッカーを仕事にしたい――そのことしか考えられず、視野が狭くなっていた僕に声を掛けてくれたのがサッカー部の部長の森原 豊先生でした。「やっさん(=おれんじさん)がサッカー嫌いになると寂しいから、サッカーを無理にワークにしなくていいんじゃないか? ライフワークにして一緒に生活を楽しむのも長く付き合う方法だよ」。森原先生はセリエAやリーガ・エスパニョーラを現地に観に行くほどのサッカー好き。サッカーを通して関わった子が、サッカー嫌いになるのを見るのがイヤだったんでしょうね。

それでも大学はスポーツに関する学部に進みました。別の学部に進学する予定でしたが、締め切り1週間前に進路を変更。親や先生は「体育教師の免許もとれるから!」と強引に説得しました。

そして転機が訪れたのは大学3年のとき。学校の掲示板に、近くの小学生のサッカーチームがスタッフ募集のポスターを出してたんです。すぐに電話すると「今日練習だから見学に来れる?」。いきなりでしたが、これは乗るしかないと思いグランドに向かいました。

グランドに着いてからのことは、これから夢がかなうという高揚感と緊張であまり憶えてません。ただ、グランドに照明が入って、走り回る子供たちを見た瞬間、懐かしさと嬉しさが込み上げてきたのは憶えています。

それから10年近く……部員不足でチームが解散するまで、やりがいある時間を過ごすことができました。大会に出て勝ち進む、選抜チームに選ばれる、試合に追われる週末、みんなで打ち上げ……僕が小学生のときにできなかったサッカー人生を子供たちと一緒に体験させてもらいました。

今は社会人チームでプレーしながら、サッカーをはじめた息子の送迎を頑張ってます。仕事は製造業。結局サッカーはライフワークとして付き合っています。

これまでの人生、サッカーをやめるという考えは一度も浮かんだことがないんです。36歳の今でもやってて楽しいし、ひとりでボールを蹴るだけでも気分転換になる。目の前に丸いものが転がってて、それを足で触ってる瞬間が好きなんです。「ボールはともだち」なのかもしれませんね(笑)。子供の頃、相手がいなくてひとりで蹴ってたぶん、チームで蹴れる喜びも人一倍感じますから。

幸せなサッカー人生を送れていると思いますよ。プロでもないし、ヒザの靱帯も3~4回ケガしたけど。サッカーでイヤな想いはしたことないですもん。

サッカーは先生や親友に近い感覚です。僕が僕であるための大切なパーツのひとつ。生活の一部で思考の一部。気を抜いた生活をしてるとプレーで失敗させて叱ってくれるし、きちんと取り組めば小さくても結果を見せてくれる。ボールを転がしてるようで、ボールに転がされてるのが自分なんです。転がった先にいい出会いも悔しい想いもあって、今のところ転がってる自分を止めてくれる人もモノもなさそうです。

そんな僕のイロは「照明と砂ぼこりのおれんじ」。照明がともったグランド、テレビで見た影のいっぱいできるピッチ。日曜夜のオレンジクラブの練習の頃から今もまだ、そこが僕の憧れのステージです。

取材後記

今回は広島FM『江本一真のゴッジ』内のコーナー『オールハウスpresents Life is廣島スタイロ』でのコラボ企画に採用されたことで取材が実現した初のパターン。大きく異なるのは、これまでは“何かを成し遂げた人”が出演してきたのに対して、おれんじさんは“何かを成し遂げた人”ではないところだ。ただの「好き」を追いかけてきただけなのに、これほど清々しく、美しく見えるのはナゼだろう? サンフレの選手にはなれなかったが、コーチとして教え子をサンフレッチェ広島ユースに送ったり、憧れだった前川和也選手(元サンフレGK)率いるジュニアチームと対戦したり、話は尽きない。ちなみに社会人チームでプレイする今のポジションはサイドバック。駒野友一選手(今治FC、元サンフレ)を手本に、内田篤人選手(鹿島など)の過去映像を観ながら日々上達に励んでいるとか。36歳でサイドバックって!

Profile おれんじ 本名は安本一仁。1986年、広島市中区出身。2歳になる前に父が家業のみかん農家を継ぐため、大崎上島に引っ越す。以降、木江小学校~木江中学校~大崎海星高校と同島ですごす。福山平成大学・福祉健康学部・健康スポーツ科学科卒業。在学中から「加茂ジュニアサッカークラブ」のコーチを務める。現在は建築資材の製造に関わりながら、社会人チームでサッカーを続けている。“おれんじ”は安本さんが広島FMにメールを送るときに使用するラジオネーム。