HIROSHIMA BLUEZ
大林 武司ジャズピアニストNo. 33
大林 武司ジャズピアニストNo. 33
窓の外には広島の風景が一望できるパノラマが広がっている。ジャズピアニスト・大林武司は彼の母校である広島音楽高等学校を訪れていた。生徒減により4年前に休校となった校舎は、静寂という音で包まれている。そこには役目を果たした楽器たちが、どこか哀しく、そしてどこか満足げに横たわっている。そんな中、レッスンルームの一室からピアノの音が聴こえてきた。音の方へ駆けつけると、大林は昨日までそこでそうしていたかのようにピアノの鍵盤の上に指を滑らせていた。記憶の糸を辿るように母高の校歌を弾き終えた彼は窓から望める景色に目を向けて、静かに話しはじめた。
ウチは母がピアノの先生で、赤ん坊のときからレッスンをしてる隣に僕を置いてピアノを弾いていたり、親父はロックが好きでエレキギターを弾いていたり、両親共に音楽が好きで家の中に音楽があるのが当たり前という環境の中で育ったんです。だから3歳から18歳までピアノレッスンに通ってたし、小学生は合唱同好会、中学は吹奏楽。高校は広島音楽高校という音楽専門校に通いました。小さい頃からうっすらと音楽に関わる仕事はしたいと思ってて。何故か広島大学に行って音楽の先生になるっていう手堅い将来像を描いてましたね(笑)。
十代の頃はピアノもやってたけど、夢中になったのはトランペット。中学の吹奏楽部でトランペットをはじめて、そんなときに東京のトップオーケストラの首席奏者を務めてた白石実さんのレッスンを受けて感動したんです。白石先生は音高で教鞭を執られてたから、僕も先生みたいに吹けるようになりたいと思って、この音高に進みました。ただ高校の途中でトランペット奏者になる自信がなくなって挫折しちゃったんです。そこで進路を急遽変更して、東京音楽大学の作曲家コースに入りました。
ジャズピアノをやろうと思ったきっかけは、大学1年の夏に山下洋輔さんという日本のジャズピアニストの巨匠のレッスンを受けたこと。やってみたら自分にもできるし「楽しい!」って感覚があって。もっと勉強してみたいと思ったんです。さらに大学1年の3月にバークリー音楽大学の先生が日本に来て、2日間の講習をするという授業があって。向こうの先生方の演奏を聞いたとき、「これだ!」って衝撃を受けたんです。みんなでその場で作曲したものを一緒に演奏している感覚とか、リズムがスウィングする感覚とか。とにかくグルーヴが半端なくて、プレイヤーが楽器で会話してる感じがして。それですぐに大学を退学して、バークリーに留学することを決めました。本物のグルーヴに出会った瞬間、自分の中のスイッチが入ったんです。
バークリーは課題も大変だったけれど、先生以外からも学ぶことが多くて。いろんな国から学生が来てて、みんな話す言語や文化が違うんです。バラバラな精神性を持った人たちが1つの楽曲を奏でるからこそ、その集合体がグルーヴになるわけで、そういう多様性に対して寛容なところが面白かったですね。先生と生徒も年齢に関わらず同じミュージシャン同士という感覚でフラットに接してて。とても勉強しやすい環境で、モチベーションも高く保てました。
で、バークリーの1年生のとき、本当は選抜クラスのオーディションを受ける成績に足りてなかったのに、英語を知らないフリをして受けに行ったんです(笑)。それで弾いたら最終選考まで残っちゃって。最終選考の課題がものすごく難しい譜面を読めって問題だったんだけど、その曲がたまたま留学前に太田川のほとりを軽自動車で運転しながら聞いてた曲だったんです。頭の中の記憶とリンクさせて弾いたら受かっちゃって……その選抜クラスで初めてNYのジャズクラブで演奏させてもらいました。そのときは学校の授業のバンドだったけど、「卒業後はこの街でチャレンジしてみたいなぁ」って思って。30歳までやってダメだったら広島に帰ろうと決意をして、卒業後にNYに出たんです。
NYでは結婚式やレストランでの演奏からスタートして、次第にジャズクラブで演奏できる機会が増えていきました。ありがたいことに3~4年目くらいからは音楽で生計が立てられるようになりましたね。どうしてNYでやっていけたか……自分としては誰も聴いてなかろうが、稼ぎが僅かであろうが、如何なる状況においても本気で演奏し音楽と向き合って来たからだと思います。ジャズの世界で生きていくには技術は勿論、順応性やアンサンブルの能力、つまりコミュニケーション能力の高さも必要なんです。ツアー中とか音楽をしていない時間も多いから、メンバーと馬が合うかとかそういう部分も大切になってきますからね。
あと、ジャズピアニストをやっていて嬉しかった瞬間があって。僕は大学3年生のときに「ジャクソンビル・ジャズ・ピアノ・コンペティション」というコンテストに出場して、3位になったんです。そのときに優勝したのがスペイン人の盲目のピアニストで、オーディエンスとの一体感が印象的だったんです。コンテストのはずなのにお客さんとの間にグルーヴが生まれてて。それを見て僕も独りよがりの音楽じゃなくて、お客さんと一体となって楽しめる演奏をしたいと痛感したんです。それで同じコンテストに29歳のときに再チャレンジして。最後にソロでブルースを弾いたんですけど、黒人のお客さんが合いの手を入れて、「あれ、ここ教会だったけ?(笑)」ってくらい盛り上がって。自分としては今までの苦労とか想いを全部込めて弾いたので、それでお客さんが喜んでくれたのがめちゃくちゃ嬉しくて。最終的にコンテストでは優勝することができました。
今年はコロナ禍の中でジャズの灯を守り続けている日本全国のジャズクラブを応援したいと思って、「Visions In Selence Project」を行いました。これは47都道府県を回って1公演につき10曲ずつ演奏するという一期一会のライブで、ツアータイトルを「470 songs, 1 journey」と名付けて1月からスタートしました。
真面目な話、それぞれの土地にいいジャズクラブって必ずあるんです。それは僕らの上の世代の方々がはじめたものですけど、そうした場所を守って行くためにも僕ら世代は音楽的に攻めて行かないといけないというか。そうした場所に負んぶに抱っこでツアーをしてるだけではジャズの良さは広まらないと思って。それでツアーの様子を英語の字幕付きでYouTubeに流して、世界中に発信するという企画も進めたんです。
土地土地にジャズシーンが根付いてるっていうのは、広島も同じです。僕が高校3年のとき、広島では「ジャイブ」ってライブカフェが盛り上がってて。狭い店の中、プロアマ問わず年齢もバラバラなプレイヤーが30人くらい集まって、定期的にジャズのセッションをやってたんです。僕もトランペットを持って飛び込んでいって。学校では反復練習の披露しかやっていなかったので、メロディをその場で作って、演奏をするという行為がすごく新鮮で面白かったんです。僕のジャズの基礎はそこで作られたと思います。
いま、ここ(母校の広島音楽高校)からの景色を見ても、「自分は広島に育てられた」って感覚がやっぱりありますね。遠くにぼんやり見える海とか自然の緑とか。広島の景色が与えてくれる安心感とか大きく包み込んでくれる青い色は、自分が目指す人物像や音楽のゾーンとリンクするんです。街と音楽の精神性はつながってて、この広島という街はジャズであるためのスピリットに重要な、陰陽を併せ持つ向かい風を乗り切る力とか哀愁――そういうモノを僕の中に育んでくれたんです。辛抱強く清濁併せ呑のみ、歴史と向き合いつつ新たな時代を切り拓いていく。言葉にすると「HIROSHIMA BLUEZ」というか。それは僕の大好きなジャズ・ピアニストであるジョー・サンプルのアルバム『虹の楽園』のジャケットと同じ、青と緑が混ざったような色なんです。
そうした自分にとっての故郷への想いを、今後は少しでも音楽で表現していけたと思ってます。たとえば僕が高校のときに入り浸っていたような、みんなが楽しく切磋琢磨できるような場所を作りたいという想いもあります。あと、広島でジャズフェスをやりたいと思ってて。ジャズに限らず、音でメッセージを伝えられるアーティストが一堂に会したら絶対楽しいだろうと思うんです。
ただ、そのためには自分がいちアーティストとしてちゃんとした音楽活動をしていかなくちゃいけなくて(笑)。今はやりたいことだらけですね!
2年も続くコロナ禍の中、人は生音(ライブ)であったり、人が集まって楽しく過ごす中で生まれるグルーヴというものから遠ざけられました。新しく生まれたZOOM飲み会やClubhouseなどのコンテンツも一時期は熱を帯びましたが、そのどれもが実際に会うことや集まることの楽しさに勝るものはないということを再確認させられたに過ぎません。大林さんの辿ってきた道のりは何処かジャズのようにも感じました。行き当たりばったりで新しい音を探しながら、メロディを作りながら、たまにピタッ!って合う瞬間があったり。節目節目で出てくるワードは「グルーヴ」。グルーヴというのは音楽用語ですが、要は「波」ということなのでいろんなシーンに置き換えられると思います。音も振動の波だし、感動も心の波です。今はこんな世の中が続いていますが、世界とグルーヴしていくことは忘れずに。揺れ続けましょう!