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株式会社バズクロウ宮川 博至代表取締役|映画監督、CMディレクターNo. 19
株式会社バズクロウ宮川 博至代表取締役|映画監督、CMディレクターNo. 19
東京の映像プロダクション等で活躍され、現在は地元広島にて、CMディレクター、そして映画監督として、数々の素晴らしい作品を発表し続けている宮川博至さん。CMの受賞歴も多数ある中で、日々の仕事を熟されながらも自身のアートワークとして、映画の制作をされています。その原動力とは何なのか?その理由を宮川さんの広島で印象に残る風景や色を想い描きながら自身のライフスタイルと共にお聞きしてきました。
僕の地元は南区の東雲(しののめ)になるんですが、おばあちゃん子だった僕は、嫌なことがあると家に帰らず、よく銀山町に住んでいるおばあちゃん家に行っていたんです。
おばあちゃん家は銀山町で食堂を営んでいました。近くの銭湯(現在mugen5610というクラブハウスがある場所)に一緒に行ったり、夜になると父親が迎えに来て、一緒に「中ちゃん」という鉄板焼きのお店に食事をしに連れて行ってもらえたりして、繁華街にあるおばあちゃん家に行くのが楽しく、好きな場所でした。
おばあちゃんはとても優しい人でした。県外の大学に通っている時も、帰省するのはおばあちゃん家。僕にとっては、そこが地元という感覚でした。自分と社会とのファーストコンタクトというか、当然、おばあちゃんの営む食堂へ集まっているのは大人の人達で、僕もそこに居るだけでそんな世界に混じって居る気になる。それが居心地良くて。今でも都会とか人がゴチャゴチャ居るところに安心を覚えるのはその時の記憶があるからかもしれません。
高校は祟徳高等学校に進学したんですが、その頃から映画を良く観るようになりました。映画館に行ったり、レンタルビデオ屋に行って1週間1000円10本セットで安くなっているVHSを借りて、ジャンルを問わずに浴びるように観ていたんです。僕は感動したいタイプというか、何かを観てそれでモチベーションを上げたりすることが今でもあって。
学生の時って、「世界が狭いじゃないですか」。社会との接点もあまり無くて、分かった振りをしているけど、自分が観ている世界って本当に狭くて。お金もないから何かを劇的に変えられるわけでもない。そんな中で映画や映像は一番身近にあって、自分にとっての外(世界)を与えてくれるものだったんだと思います。
自己満足程度ではあるんですが、映画を観て、自分の撮りたい映画や映像の構成をノートに書きなぐったりして、思春期特有のフラストレーションをそういうとこにぶつけて発散していました。
映像の世界に興味はあったんですが、美術系の大学に進学するにはデッサンを描けないと無理だったのと、親が医者だということもあり、栃木の医療・福祉系の大学に進学しました。医療系の大学という所は、自分の夢に一途で、医療福祉がやりたくて来ている人が集まる場所なんです。けれど僕は高校が男子校だったこともあり、大学には女子も居るという少し不純な動機だったり、「親が医者だから自分も医者にならなければならない」という周りからの期待に反発心もあって。そんな周りとの意識のズレを感じて、このままでは良くないと思うようになっていったんです。
それで大学二年生の時に、ずっとやりたかった東京で映画の現場だったり、映像の現場のお手伝いをさせてもらうアルバイトを始めました。大学卒業後は、東京の広告制作会社の映像部門に就職をして、三年間働いた後に独立してフリーになり、12年前に結婚を機に広島に戻って、バズクロウという会社を立ち上げたんです。
今は、クライアントワークとしてCMやミュージックビデオを撮っている傍ら、仕事や生活をルーティーン化させたく無くて、旅に出たり、映画を撮るようにしています。(※取材時は2019年)
「自分は成長しているつもりでも、ただ漫然とこなしているだけだと、実は足元は泥沼で段々下がっていて、成長しているくらいで初めて現状維持ができる」という言葉があるんですが、それが凄くよく分かるんです。変わることを意識的にしていないとただ死んでいるだけで、そこに対しての恐怖は日々感じているんです。
また、普段の仕事と映画を撮る事は、どちらにも良い影響を与え合うと思っているんです。映画祭に行くと、色んな映画監督さんがいます。その中には自分の好きなものを表現したい人もいて。自分の気持ちファーストな映画作りも勿論良いと思うんですが、僕は仕事でコマーシャルを撮ったりするので、映画を作る時も、「どうすればこの表現を沢山の人に伝えることができるか?」という観ている人の視点を意識して撮るようにしているんです。
先日、大阪の中之島映画祭に参加させて頂いたのですが、そこは映画を観たお客さんが採点してグランプリを選ぶスタイルのコンペティションで、去年撮った「テロルンとルンルン」でグランプリを受賞させて頂いたんです。その時に普段しているCM等の仕事は、映画にもちゃんと活きているんだなと実感しました。
僕にとっての原風景のイロ――。おばあちゃん家のある銀山町は、今と昔では風景も変わっているんですけど、想い出の中に刻まれています。そして、原風景っていう意味での色は「白」かなって思います。
「白って、例えば光のイメージだったりするじゃないですか」。僕の仕事は、光とか視覚的要素の強く、色によって世界観が決まっていくのですが、僕が作っている時は自分の作品なのに、お客さんに観せた瞬間に、作品はお客さんのものになっていて、観た人が思い思いのイメージの色を作品につけていくんです。
「テロルンとルンルン」という映画で、電車が走っているシーンがあります。僕はただ何気無く時間の経過を現す為に撮ったんですが、その後に豪雨災害があって、その電車は止まってしまったんです。その映画のシーンを観た方が、その電車の走っている姿を見て、「復興を頑張ろうと思った」と言ってくれた人がいて。
僕が考えていた事以外の思い入れが、新しい色として作品に付くというのが凄く良いなって思ったんです。真っ白なスクリーンに自分の作品が上映されて、そこにお客さんが想い想いの色を乗せていく。白ってそこに相手が好きな色を乗せれるから好きなんです。
少し話は変わるんですが、僕は小学校二年生くらいの時に、タノトフォビア(死恐怖症)という、「死」という事や、存在が無くなることの自己喪失に対して恐怖するようになり、「生きていることが虚しく思えてしまう」。そんな状態になったんです。
それを解決する方法っていうのは、毎日をちゃんと生きて、「今」という時間を大事にする、ということぐらいしかないんですが。そういう事が15年おきくらいにあって。
考え方って歳と共に変わっていくじゃないですか。子供の時は、そんな状態を打破するのに毎日をちゃんと頑張ろうって考えたりしたんですが、今は子供がいるっていうことも一つの救いだったりするんですけど、「何を残せるのか」ということを意識するようになって。
会社の事業もそうなんですけど、映画は、僕が死んでも作品は残り続けていくんです。だから映画を撮る時は、「この先残せるものをどれだけ作っていけるか」という事を考えて撮っています。それが今では人生の意味というか、タナトフォビアに対しての自分なりの答えなんだと思っています。
タナトフォビア(死恐怖症)という名前を今まで聞いた事がなかったんですが、思い返すと自分も少年時代に「死」であったり「宇宙の果て」であったり、自分の理解の範疇に無い、答えのない大きな存在に思いを巡らせて、言いようのない不安に駆られていた時があったことを思い出しました。そんな自分の存在がおぼつかなくなった時は、そこから、考えたくないって逃げてしまうこともあると思うんですが、宮川さんは、その都度しっかりと足元を確認して、目標を立て、そこへ向かう事で「死」というモノに立ち向かわれていて。その境遇すらも逆に「力」に変えられているのが凄いと思いました。何かを残す事で「死」というものに対抗するという宮川さんの答えは、「今」、現代に残っている素晴らしい作品を創った先人達の「想い」だったのかもしれません。宮川さんの話を伺って、この廣島スタイロもこの先何十年、何百年先にも残る廣島の色であるように、これからも丁寧に紡いで行きたいなと思いました。これからも宮川監督のご活躍を応援しています。