調和のブラウン
株式会社広島マツダ松田哲也代表取締役会長兼CEONo. 12
株式会社広島マツダ松田哲也代表取締役会長兼CEONo. 12
3年前、原爆ドームの横にオープンした「おりづるタワー」。屋上に地上50mから広島の街を見渡せる展望台「ひろしまの丘」を擁し、1階にはカフェやスーベニアショップを併設したこの建物を作ったのが株式会社広島マツダ代表取締役会長兼CEOを務める松田哲也さんです。市や県から補助金を1円ももらわず、すべての費用を自社で用立てこのタワーを創り上げた理由は何だったのか? 観光客でにぎわう広島の新ランドマーク完成の奥に隠された松田さんの情熱に耳を傾けました。
「おりづるタワー」を作ることになったのは2009年、私が40歳のとき、旧・広島東京海上日動ビルの責任者から「松田さん、うちのビル買いませんか?」というお話をいただいたことがきっかけです。ビルは築30年以上で老朽化も進み、耐震工事をするにもお金がかかるということで、不動産事業をやってた広島マツダに声がかかったんです。
当時、私は広島マツダの社長をやってましたが、地方のいち中小企業であるわれわれにこんな一等地のビルが買えるわけありませんよ。それでも私はビルの内見会に誘われ、付き合い程度の感覚で参加することにしたんです。
内見会では下から順番にビルを見ていきました。十数人が集団になって最上階まで進み、「ついでに屋上も見てみましょうか」となりました。そして普段は開放されてない屋上のカギを開け、エアコンの室外機が並ぶ場所に足を踏み入れたとき、私はおおげさではなく地軸が変わったような衝撃を受けたんです。
そこには私がこれまで見たことがない故郷・広島の風景が広がっていました。足元には原爆ドームが見えます。多くの観光客が訪れる世界遺産。広島生まれの私にとってそれは何度も見てきた建物のはずなのに、上から見下ろす原爆ドームというのは初めてのアングルでした。そしてドームを取り囲む平和公園の木々の緑、その向こうに広がる広島の街並。
その場にいる誰もが「うわ、すごい!」と大きな声を上げましたが、私は目の前の光景に声も上げられないほど感動していました。かつてここで悲劇があったことを示す原爆ドームの向こうに広がる活気ある街の光景。それは「70年は草木も生えない」と言われた廃墟から復活を果たした広島という街の生命力を表すとともに、「人間はどんな惨劇からでも立ち直ることができる」という強烈なメッセージを人々に訴えかけてるように思えたんです。
その瞬間、私は心に決めてました。「ここは絶対他の人に買わせちゃいけない。展望台にして広島の人に、いや世界中の人にこの景色を見せなきゃいけない!」って。屋上にいたのはたった10~15分でしたが、7年後、おりづるタワー完成に至るまでの私の長い旅はそこからはじまっていたんです。
おりづるタワーを象徴する色は茶色かもしれません。
もともと私は茶色という色が好きでした。私は2009年、広島JC(青年会議所)という組織の理事長を務めましたが、JCでは毎年理事長がその年の色を決めるという風習がありました。そのとき選んだのも茶色。私は59代目の理事長ですが、それまで茶色を選んだ人なんてほとんどいなくて、みんな黒、赤、白、青……。でも私にとって茶色は木の色、大地の色、落ち着く色、土から生み出されるという意味で“はじまりの色”……自分の好きな要素がいっぱい詰まったとても愛着のある色だったんです。
それはおりづるタワーについても同じです。私は広島東京日動海上ビルを買い取って改装することにしましたが、そのときも派手できらびやかなビルにするつもりはまったくありませんでした。むしろ逆で、いかに街の風景に溶け込むか、隣接する平和公園の景観を邪魔しないか、そこにもっとも注意を払いました。たとえば元安川の方から原爆ドームを撮影した場合、このビルはドームの背景にあたります。そのときドームの雰囲気を壊さないようにしなければならない、白っぽい外観にしてしまうとドームと重なって輪郭がぼやけてしまうのでドームを引き立てる濃い色にしないといけない……そんなことを考えた末、導き出されたのが今の茶色という選択だったんです。
そもそも当初のおりづるタワーは、平和公園の延長線上にある森のようなビルをイメージしていました。本音を言えば緑のツタに覆われた甲子園球場のようにしたかったけど、さまざまな事情でそれは叶わず。それでも色味と雰囲気だけは残すことができました。
すべてに調和するブラウン。木と土を嫌いな人なんて誰もいないですよね? 生命の原点でありながら、どの色と隣り合わせても相手を乱さない懐深いたたずまい。タワーだけでなく私自身も人として茶色が似合う人間でありたいです。
おりづるタワーが完成して3年が経ちますが、このビルに込めた想いはなかなかまわりに伝わってないと感じます。私はこのビルをきっかけに、広島がもっと人の心を動かす街づくりにシフトすることを期待してました。屋上の「ひろしまの丘」をヒノキ造りの情緒的空間に仕立てたのもそういう理由から。この場所で自分にとっての平和についてゆっくり考えてもらいたい、広島の街が世界に発信できる文化、美意識について感じてもらいたい……しかしいまだに「値段が高い」「展望台が低い」といったスペックのみで価値を判断される方が多いみたいです。
今は高度経済成長の頃のような「建物を建てればいい」「モノは使えればいい」という時代から変わっています。日本の人口は減少に向かい、成熟が求められる時代です。そんな中で私たちは何を大事にし、何に意味を見出せばいいのでしょう? 先人たちが廃墟から復興させたこの街をどのように継承し、どのように成長させていきたいと思ってるのでしょう?
私は広島という街のポテンシャルはまだまだこんなもんじゃないと思います。訪れる人に勇気を与える街として、世界中にファンを作れる素地があると信じています。だから街づくりにしても他と同じようにする必要なんてなくて。たとえば広島駅前に大きな公園を作って、そこでコンサートを開いたりしてもいいでしょう。平和大通りを歩行者天国にして、そこにオープンカフェやスケートボードができる場所が設置されたら、もっともっと平和な風景が広がるでしょう。
この6月、私は『2045年、おりづるタワーにのぼる君たちへ』という本を発表しました。ここで出てくる「2045年」とはこの街に原爆が投下されて100年後の年で、そのとき私たちはどんな暮らしをしてたいのか、子供たち世代にどんな広島を残したいのか一緒に考えてみませんかという提案をしています。戦後1世紀という節目まであと26年。26年あれば人も、街も、十分変わっていけるはずです。
2045年、展望台から眺める広島がすばらしい街であるように、私は今日もこの風景を目に焼き付けるためおりづるタワーにのぼろうと思います。
松田さんは豪胆さもあるのに繊細さも感じさせる不思議な方です。天下の松田家(ひいおじいさんはマツダ創始者・松田重次郎)の血統、株式会社広島マツダ代表取締役会長兼CEOという堂々たる肩書とは裏腹に、ご本人は謙虚で丁寧、たまに弱さまで見せるというアンバランス。その人間臭さが女性のみならず多くの男性シンパを生み出す秘訣なのでしょう。有言実行で今後の広島を牽引していくキーパーソン筆頭格。そのパッションとメッセージは著書にしっかり書かれているので、ぜひ読んでほしいと思います。読むとおりづるタワーを見る目が全然変わりますよ!